「距離を置く」ということ

私に触発されて(?)はてなブログを開設したと思しき方々の記事が揃いも揃っておもしろすぎるが故に、萎縮し、ふてくされ、はてなブログとの距離を置いていた左近です。こんにちは。♡なこちゃん♡ではありません。前後のハートはほんと何なんだ。

 

実際に「距離を置く」という措置を取っている方からインスピレーションを得てこの記事を書いているんですけど、全部読み終えてもどうか死なないでくださいね。

 

「距離を置く」ということ。私自身、1週間はてなブログと距離を置きましたが、苦痛に思って離れたものにまた戻ってくると少し気が楽になるように思います。ブログのように、あってもなくても実害が出ないものなら一向に構わないんですが、これがたまに楽器の練習に出てしまう私は、ちょっと距離を置きたい気持ちと毎日触らないと衰えるという恐ろしさに片腕ずつ引っ張られてよく苦しみます。ところで楽器やってる人の二の腕がとても好きです。該当者はコメント欄に写真ください。左近の大好きな二の腕と腕橈骨筋の話はまた別に機会を設けてお話ししたいと思います。

話を戻しまして、まあブログにしろ楽器にしろ、ほとんどのことは、そうして少し距離を置いてみることで一種のスランプから抜け出すような感覚にも似たものを覚えて初心にかえることができると思うんです。なんでかって、ブログにしても楽器にしても、他の物質的なものにしても、「距離を置く」ということは、自分が離れていくだけで相手はずっとそこに留まっていてくれるということだから。

こうした、「距離を置く」ことで再び元の関係に戻る、若しくはそれ以上の関係を構築することができる相手の唯一にして最も致命的である例外が、「人」です。「人」。

よく言いますよね。許せないことがあったりマンネリ化したりで恋人と「距離を置く」。個人的には、その瞬間に一巻の終わりだと思うんです。相手が意思を持った「人」である以上、相手がその場に留まっていてくれる保証もなければ、自分がその場に留まっていたところで相手が再び戻ってくる保証もない。最悪の場合、両者が共に負のエネルギーを持って反対向きに進むことだって十二分にあり得るわけです。そんな状況下で解決を先延ばしにするも同然である「距離を置く」という行為には、どうしてもポジティブな要素を微塵も感じることができません。それに加え、もしその措置を取った後でとりあえずは元に戻ったところで、そこで大きくすれ違ったことは既に起こってしまったことであり、それから先の関係においてもどこか心に引っかかるところを残してしまったり、不要な気疲れを引き起こしてしまったりすると思うんです。

それゆえ左近は、

「距離を置く」≒ダメージを最小限に抑えるためのお別れ準備期間への導入

と考えてしまうわけです。

あ、今もしかして死人出ました?

252

852

もしもーし。

まあでも距離を置いた後できちんと話し合う機会を設けることができたのなら、少なくともどうにかして妥協点を見つけようとするその姿勢の根底には「好き」が残ってるんでしょうね。各位陰ながら応援しています。

もしも「距離を置く」ということ、成功例が出ましたら左近まで御一報ください。

それではまた。